真夏の果実






最悪だと思った。
今まで生きてきた中で、今が一番苦しい。
ベッドの中で何度目かの寝返りをして、オレはため息を吐いた。

今日は試合はない。
そして、ずっとこの調子なら今後、他の奴の起用を考えると監督に釘まで刺された。
今まで稼いだ分があるからそんなに悪い打率ではないけれど、それでもオレの不調は火を見るより明らかだった。


何かを失うことがこんなに辛いことだったなんて、今まで何も失ったことないオレは初めて知った。
花井ともう二度と触れ合えないのだと思うだけで、頭が殴られたように痛む。心臓が刺されたみたいに痛む。
ただ、悲しくて、苦しくて、寂しくてどうにかなってしまいそうだった。

自分が必要してる人に必要とされないことはこんなにも苦しいのか。


そしてそれは自分の野球にも支障をきたした。
自分が思ったとおりの野球を出来なくなるなんて今まで思ったことがなかった。
自分の野球を疑ったことなんて今まで一度もなかった。

それが今、こんなにも揺らいでいる。
たった一人の人の影響を受けて、こんなにも揺らいでいるのだ。

花井を失ったのだと分かった時、でもオレには野球があると思った。
たったふたつしかない大切なものがひとつになったから、せめて野球だけは守らなければと思った。
そうすれば大丈夫だと、何度も言い聞かせていた。

でもそれが間違いだった。
やっぱり花井と野球、ふたつが揃わないと俺の人生に幸せなんて起こりえない。

時計の音がカチカチと静まり返った部屋に響く。
その規則正しい音に気を抜くと涙腺が緩みそうになった。



打率はどんどん下がっていく。
何が原因か分かっていても、どうしようもないのだ。
どうすればもう一度、花井に触れることが出来るのだろうか。
どうすればもう一度、花井に繋がっていたあの野球が出来るのだろうか。


唐突にインターホンの音が鳴り響いた。


オレは顔を上げた。
誰なんだろうか。
記者たちではないはずだ。

結婚秒読みとまで煽られていたオレとアズサの熱愛報道は、先月アズサの所属事務所と球団が否定したことで落ち着き始めていた。
しかしタイミングが悪く、今度はオレの不調がアズサに振られたからだと記事になった。
プロって失恋したことまで記事になるんだなとオレは思っていた。
そしてその記事を見ながら、これで花井の誤解が解けるんじゃないかと思ったり、今更だろうと自分に言い聞かせたりしていた。


またインターホンが鳴る。

オレはベッドから抜け出してペタペタと廊下を歩いて玄関に向かった。

そしてモニターを見て、動けなくなった。
モニターの画面に花井がいたのだ。

しばらく声も出なかった。
ただ、モニター越しの花井を見ていた。
花井はしばらく立っていたけど、オレが留守だと思ったのか画面から消えてしまった。

花井が帰ってしまう。

そう思った瞬間にようやく体が動いた。
鍵をあけ、ドアを開けた。

「花井!!!」

オレの声に驚いたように花井が振り返った。
オレは裸足で思わず部屋の外に出てしまった。

「田島、」

花井はオレの名前を呼んで、微笑んだ。
その微笑が何を指すのかオレには分からなかった。
だけどもう一度花井に会えた。
それだけで死にそうなほど嬉しかった。

その場で固まっているオレの方へ花井が歩み寄ってきた。
そしてもう一度「田島、」とオレの名前を呼んだ。

「田島、話があるんだ」

花井はそう言って、真っ直ぐにオレの目を見つめた。
あぁ、この目をオレは知ってる。
いつもこの目を探していたんだ。


「俺はお前のことが好きだよ。多分一生、ずっとそれは変わらない」


花井の声は透き通っていて真っ直ぐにオレの心臓に届いた。

「お前が誰と結婚したって、俺は一生お前のこと好きだから。それだけ伝えにきた」

俺は驚いて何も言えなかった。
ただ黙って花井の顔を眺めていた。
嬉しさはじわじわと足元から湧いてきた。
でもそれはとてもゆっくりだったのだ。

「じゃあ、な」

花井はそう言った。
オレは反射で花井の腕を掴んだ。

「どこ、行くんだよ」
「どこって、会社」

花井は困ったような顔で言った。

「今から?だってもうお昼だよ」
「無断欠勤よりは遅刻の方がマシだろ」

そう言った花井の腕をオレは引っ張って部屋の中に押し込んだ。
花井が勢い余って玄関に倒れこむ。
オレはがちゃりと鍵をかけて、倒れこんだままの花井を抱きしめた。

「たじ、ま」

花井がオレの名前を呼ぶ。
それがどうしようもないほど嬉しかった。
嬉しすぎて、ほら、涙が止まんないよ。

「なぁ、花井は全然分かってないよ」

オレは花井を抱きしめながらそう言った。

「オレがどれくらい花井のこと好きなのか、花井は全然分かってない」

オレが花井の耳元でそう言ったら花井は「わかってる」と言う。
全然わかってないくせに、そう言うのだ。

床が冷たい。
でも花井に触れたとこから熱くなっていく。

「花井、どうしてあの日オレがあんなところに居たと思う?」

花井が「え?」と聞き返す。

「再会した日、あんなオフィス街にどうしてプロ野球選手のオレがいたと思う?」

花井が息を呑んだ。
そうだよ、花井、そうなんだよ。


「オレ、あの日花井に会いに行ったんだ。花井の会社まで会いに行ったんだよ」


そっと顔を耳元から離して、花井の顔を見た。
花井の綺麗な瞳から涙が零れ落ちた。

花井の涙をオレは舌で掬った。
オレの涙は花井が指で掬った。

「花井、一生オレのこと好きって言ったよね?それはオレも同じなんだよ」

心臓がぎゅっと締め付けられる。
でもそれは幸福な痛みだった。
伝えたいことをオレはようやく伝えることが出来たのだ。

花井がそっと優しい手つきでオレの頬を撫でた。
オレは花井の額にキスを落とした。


「一生、一緒にいよう」


オレがそう言うと花井は「ああ」と言った。
オレは笑って、花井も笑って、そっと口付けた。


オレと花井はあのグラウンドからようやく一歩を踏み出せた。
長い長い夏がようやく終わりを告げた。







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