真夏の果実






「もうこんな時間、」

壁に掛かっている時計を見て、俺は携帯電話に手を伸ばした。

あの日から、田島から電話が掛かってくることはなくなった。
代わりに、竹下さんへ俺から電話を掛けている。
それはまるでスイッチを押したかのように、滑らかに切り替わった。

竹下さんが出張に行ってから、もう2ヶ月が経つ。
つまり、あの日からもう2ヶ月が経っていた。

その間、竹下さんとはメールや電話でやりとりをしていた。
お互いに時間に余裕があれば電話をして、そして忙しくても一日に1回はメールを送っていた。
A型で几帳面だと言われる俺は、こういう事もマメなんだな、と自分でも感心するほどだった。
そして同じように竹下さんもマメだった。

田島のことを考えないように心がけることはイコールで竹下さんに時間を作ることになっていった。
それが原因なのか、竹下さんとの付き合いはまるでどこか遠くからぼんやりと眺めているような感覚だった。




「最近野球の試合見に行ったんです」

電話の向こう側で竹下さんが嬉しそうにそう言った。
野球という言葉に、心臓の音が一瞬大きくなった気がした。

「花井さんが高校時代に野球やっていたって沢田さんから聞いたんです」

沢田さんというの俺の会社の課長だった。
あぁ、そう言えば課長にはそういうことを話したことがある。

俺の中で野球は田島と強く結びついていた。
田島を忘れようともがいていた日々の中で、田島から離れるために俺は野球からも離れたのだ。
だからあまり誰にも野球の話をせずにしてきた。

「友達が田島選手のファンだったんで、その試合を見に行ったんですけど、」

ほんとに不意打ちだった。
そりゃあ、田島はプロ野球選手だ。
でも、まさか竹下さんの口から田島の名前が出るとは思いもしなかった。

心臓がドクドクと早く脈を打つ。
ざわざわと、体の奥から何かが音を立てて俺の意識を侵食する。
これ以上聞いてはいけない、と頭の中で誰かがそう告げる。
でも俺の口は言葉を紡ぐことがその時出来なかったのだ。


「田島選手、調子悪いみたいでやっぱり一度も打てなかったんですよね」


その言葉に俺は反射で「そんなはずはない」と言った。

「田島が、打てないなんてそんなことあるはずがない」

それは本当に思っていたことだった。
あの田島が打てなくなるなんて、そんなことはありえない。
いつでも、どんな時でもあいつの野球が崩れることはなかった。
それはこれからもずっと変わらないはずなのだ。

「でも田島選手の調子が悪いって、確か記事にもなっていましたよ?見ていませんか?」

その記事は見ていなかった。
その記事どころか電話で別れを告げた日から田島のことを考えないようにしようとして、今まで欠かさずにチェックしていた試合結果や、田島の打率、新聞も、全部一切見ていなかった。
野球を、田島を必死に遠ざけていた。

頭を鈍器で殴られたみたいな鈍痛がする。
ざわざわとまるで内側から這い出して騒ぎ出したものは段々大きくなってくる。

「あの、用事を思い出したので、また掛けなおします」

俺が辛うじてそう告げると、竹下さんは「あ、今日はもういいですよ」とふんわりした声で言った。

「でも帰ってくるのは明日じゃ、」

竹下さんは2ヶ月の出張を明日で終えて、東京に戻ってくる予定だった。

「花井さんも仕事あるでしょうし、わざわざ空港まで迎えに来なくても大丈夫ですよ」
「…そうですか」
「着いたらこちらから連絡します」
「わかりました、じゃあ、おやすなさい」
「おやすみなさい」






電話が切れて、俺はすぐに電話帳から阿部の電話番号を探し出して掛けた。
阿部なら、阿部なら何か知っているはずだ。

コール2回で阿部は電話に出た。

「阿部、」

俺のその声は情けなかった。
たったその一言で阿部は俺が言いたいことを察知したらしい。
後ろのざわめきがだんだん聞こえなくなって、一度大きくドアが閉まる音がした。
そして阿部が「なんだよ」と言った。

「田島が、田島が打てなくなってるって本当なのか、」

阿部が否定してくれることを俺は願っていた。

「ああ、本当だよ」

阿部は俺の言葉を否定じゃなくて、肯定した。

「あいつ今スランプみてぇなんだよな、打率みるみる下がっていく。見ていて痛々しいよ」
「そんなこと、あるはずねぇよ、田島が打てなくなるなんて」

田島の野球が揺るがないものだというのは俺が一番知っている。
だからこそ信じられなかった。

「お前、田島と何があった?」
「何もねぇよ、ただ、終わっただけだ」

そこで阿部がため息をついた。
でもそのため息が指す意味が俺にはまだ分からなかった。

「田島は体壊したりしてんのか?」

俺がそう聞くと、阿部は「体じゃなくてメンタルの問題だろう」と言った。
それが余計信じられなかった。

だって田島は今幸せなはずだった。
結婚だって秒読みで、俺ともちゃんと切れて、田島が今不安定になる原因は何一つあるはずないのだ。

「お前、田島と別れたのはいつなんだ」
「・・・2ヶ月前」

そう言うと電話の向こうで阿部が黙り込んだ。

「阿部?どうしたんだ」
「何で別れたんだよ、」

阿部にしては珍しい詮索だった。
俺たちは基本互いの恋愛沙汰には口を出さないのだ。

「田島に恋人が出来たからだ」

きっかけはあの熱愛報道だった。
そして俺が竹下さんと出会ったからでもあったし、別れを切り出したのは俺だが、そこは伏せておいた。

「・・・お前それを田島の口から聞いたのか?」
「なにを、」
「田島が、お前よりその女を取るっていうのを田島の口から聞いたのか?」

それは聞いていなかった。
俺は田島の話を一切聞かず、別れを切り出したのだ。

「聞いてねぇ、」

でも、でも聞かなくても同じだろう、何でそれを。

「いいか、今から言うことをちゃんと聞けよ」

阿部が静かにそう言って、俺は息を呑んで耳を澄ませた。
何を言われるかが検討もつかなくて、握り締めた手のひらに汗がじわっと滲んだ。


「田島が調子を崩したのは、ちょうど2ヶ月前の試合からだ」


それは信じられないことだった。
そしてそれが何を指すのかがよくわからない。
分かってしまいたくない。

「うそだ、」

思わず呟いた俺に、阿部が「嘘じゃねぇよ」という。

「でも、阿部だって知ってるだろう、あいつが、俺なんかで揺らぐはずがない、」

そうなのだ。
いつだってそうだった。
俺は田島の野球に触れることさえ出来なかったのだ。

「俺にはあいつがいない人生なんて考えられなかったけど、あいつは俺がいなくても平気なんだ、」

だから俺は田島を捨てたのだ。
田島のいない人生なんて考えきれないと言いながら、去られるくらいなら、と手放したのだ。
俺が隣にいなくなったくらいで、田島がどうにかなるわけがない。
隣に俺がいなくなったところで、田島が振り向くはずもないんだ。
俺が何したって、どうしたって、田島には届くはずがないんだ。

だって、あいつは、


「ヒーローだから?」


俺は思わず息を呑んだ。

「田島は、田島だろう。お前はずっと見てきただろう、お前が一番あいつを知ってないといけねぇんだよ」

阿部の声には少し怒気が含まれている。

「自分ばかりが辛いみたいなふざけたこと言うんじゃねーぞ、お前が被害者なら、田島は加害者っていうのか?」
「ちが、」
「違くねぇんだよ、お前、今どこから田島見てんだ?スタンドか?それともテレビの前か? 同じグランドに立ってたことを忘れるんじゃねぇよ、田島はお前のヒーローじゃなくてライバルだろーが」

阿部の最後の言葉が直接心臓を突き刺した。
俺は言葉が出なかった。

しばらくの沈黙の後、阿部がため息混じりに「今までお前の肩を持ってきたけど、今回ばかりは田島に同情する」と呟いた。
そして、「じゃあ、俺仕事あっから」と言ってあっさり電話を切った。

俺は切られた携帯電話を握り締めながら、ただ、呆然と部屋に立ち尽くしていた。








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