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真夏の果実 花井から一度「会わない」と言われたとき、その理由はオレの熱愛報道の記事の所為だと思っていた。 あれからしばらくテレビではオレとアズサの熱愛報道が頻繁に取り上げられていたけれど、事実ではないのだからすぐに世間から忘れられるだろうと思っていた。 しかしいつの間にやら結婚秒読みなどというありもしないことまで言われて騒がれる始末だった。 ほとぼりが冷めるまでオレは待てなかった。 ほとぼりが冷めるのを待っていたら、ようやくもう一度近づけた花井との距離が離れてしまいそうだったからだ。 何度も花井の携帯に電話をかけたし、何度も留守電も残した。 それは花井に繋がる手段はこの携帯にしか残されていないからだった。 掛けた電話に花井が出ずに留守電になってしまうことにオレは慣れてしまっていた。 だから花井が電話に出たとき、本気で驚いたんだ。 電話に出てくれた、と思った瞬間に何を言えばいいんだろうと思って言葉が出てこなかった。 だからやっぱり「ちゃんと話がしたい」と言うしかなかったんだ。 花井はしばらく沈黙を落とした後、「田島、」とオレの名前を呼んだ。 どうしてだか分からないけれど、その声を聞いた瞬間胸がざわついた。 また不安で心臓が押しつぶされそうになった。 でもオレはそんなのは考えすぎだ、と自分に言い聞かせながら花井の次の言葉を待った。 花井、話をするって言ってくれよ。 お願いだからわかったって言ってよ。 「オレはもうお前に会うつもりはないよ」 花井が言った言葉はオレを拒否するものだった。 そしてそれは高校時代の、あの日の花井に重なって見えたのだ。 あの頃の花井はオレの幸せのためを思って別れを切り出した。 そして、今の花井も同じように思ってくれてるのだとしたら、オレはもう間違いを繰り返さない。 オレの幸せは花井の傍にしかないんだよ。 「また、またオレの幸せの為なのか?」 花井がそうだ、と言えば否定してやろうと思っていた。 オレは覚悟を決めていた。 だから花井にも覚悟を決めて欲しいと思ったのだ。 花井からの返答を待っている間、気がどうにかなってしまいそうだった。 それくらい自分の気持ちを早く花井に知って欲しかった。 けれど、花井が口にしたのは予想外の言葉だった。 「俺の幸せの為だ」 花井が何を言ってるのかわからなかった。 わかりたくなかった。 言葉が出てこなくて、オレは何も言えなかった。 ただ、泣き出してしまいたくなる衝動しか湧いてこなかった。 「もう、電話掛けてこないで欲しい」 花井はそう言って電話を切った。 ツーツーと通話が切れた音がずっと響いている。 オレはしばらく立ち尽くしていた。 それからとりあえずベッドに横たわって、花井が言っていたことを理解しようと整理した。 あの頃からオレの幸せはずっと花井の傍にあって、それは離れてもずっと変わらなかった。 そしてそれは花井もずっと同じなんだと信じていた。 だから絶対幸せになれると思っていたのに。 ずっとずっと信じて疑わなかったものを、他の誰でもなく、花井が否定した。 理解しようとしていた癖に、花井が言った言葉の意味が分かると、やっぱり否定してしまいたくなる。 花井がオレのことをもう好きじゃないなんて、信じたくなかった。 信じることをしたくなかった。 大きすぎるベッドの上で寝返りを打って、オレはうつ伏せになった。 心臓が脈打つたび楔を打ちつけられるような痛みに耐えるように両手でシーツをぎゅっと握りしめる。 シーツはあの日から一度だけ洗った。 だから花井の匂いなんて残ってなかった。 匂いなんて残ってなくても、それでもこのベッドで花井を抱いたという事実は変わらない。 もう一度触れることが出来たのに、キスだってしたのに、なのに、なんでだよ。 「うそだろ、冗談だって言えよ、花井」 そう呟いても、返事を返してくれる人は傍にはいなかった。 静まり返った室内に、時計の音が響く。 耐え切れずに零れた涙が音もなくシーツに吸い込まれていった。 花井が決定的な言葉を告げた日から、オレは花井に電話を掛けることをしなかった。 昔のオレなら絶対かけることは出来たはずなのに。 花井の都合なんてものを考えられるようになったオレはどうしても通話ボタンを押せなかった。 好きになってから数えるとしたら9年越しの恋だった。 あまりにも長い時間連れ添っていたから、喪失感は当たり前に大きい。 しかしそれで仕事が出来ないなんてプロ失格だし、そんな弱音は吐く気もしなかった。 「田島、安田をホームに返せよ」 監督にそう言われてオレは頷いてバッターボックスに向かった。 その日のバッターボックスは不思議な場所だった。 バッターボックスがオレにとって不思議な場所だったのは野球を始めた頃からずっと変わらない。 だからこそオレは野球を続けられるんだと思っている。 バッターボックスに立つと、歓声や他の全ての音が消え去って、呼吸をする感覚で集中できる。 投手の呼吸さえ読み取るほど高く集中できるのだ。 そして、全てが可能なことに思えてくるのだ。 見たボールを打つことはもちろん、ヒットを打つことだって、ホームランだって可能なことに思える。 けれど今日のバッターボックスはいつもと違っていた。 あの集中にいつまでたっても入れないのだ。 雑念がいつまでたっても脳内から離れない。 投手の呼吸を読むどころか、自分の呼吸が乱れている。 「ストライクー!」 オレのバットは空を切り、投手が投げたボールはキャッチャーのミートに届いた。 目の前に向かってきたボールをいつもなら打てるのに。 バッターボックスでの焦りなんて、本当にオレらしくない。 2回目のストレートにはバットを当てられた。 オレはアウトになったけれど、安田は無事にホームに帰った。 オレがベンチに戻ると安田が「さすが田島だな」と言ったけれど、それにオレは曖昧に答えてベンチに座った。 芯がぶれてる感覚だった。 違和感があって気持ちが悪いくらいだ。 自分が頭の中で思い描いている野球がさっきのバッターボックスではできなかった。 オレに取って野球は本当に大切だ。 野球を覚えてからずっと、オレにとってその存在は絶対的価値がある。 高校に入学してから、花井と出会うことでその価値はさらに高まった。 オレは他の人より周りを気にせず生きている分、あまりモノに囚われない。 家族も、チームメイトも周りの奴だってそりゃ大事だけれど、オレにとって野球と花井は次元が違うのだ。 野球と花井がなければ絶対に幸せになれない。 本当に大切なものはいつだってちゃんと分かっていた。 だから迷うことはなかったし、守るべきものが少ない分、他の人より向ける情熱の量が違うんだと思う。 オレの人生に意味があるなら、野球と花井だけだった。 大切なものが少ないオレがひとつを失うということはとても大きなことだ。 でも、花井を失ってしまった。 だからこそ、野球だけは失うわけにはいかないんだ。 花井を失った今、野球まで失うわけにはいかないんだ。 「田島、次だろ、ネクスト行けよ」 三振して帰ってきていた安田がそう言った。 オレははっとして顔を上げて、バットをぎゅっと強く握り締めて、バッターボックスを睨みつけた。 2回目の打席で3回目の「ストライーク!!!」という審判の声が聞こえたとき、足元の地面がぐにゃりと歪んで、まるでブラックホールに飲み込まれてしまった気がした。 >>10話 |