真夏の果実






「花井さん」

花井の名前を呼ぶ声が聞こえて花井は足元に落としていた視線を上げた。
目の前で竹下さんが柔らかく笑う。

「お待たせしました」

俺は竹下さんの荷物を持って並んで歩き始める。
日が沈んで、暗くなってきた空に人工的な光がぼうっと灯っている。
今日は週末だからさすがに人が多いな。
そんなことを考えながらコーヒーが美味しいらしい近くのカフェに入った。


あれから暫く体調が悪く、会社に復帰できた頃にようやく俺は竹下さんに連絡をした。

「もう掛かってこないんじゃないかと思っていました」

電話口で彼女はそう言った。
俺も本当は掛けるつもりはなかった。
ただ、気がついたら掛けていたのだ。
そして、声を聞いてほっとしたんだ。

俺は今はいくつかの企画を持っていて仕事が忙しく、彼女も明後日から北国の支社へと数ヶ月の間出張に行く。
だからこうやってたまに会っては、彼女の引越し用の店を回ったり、食事をしたりしていた。


2回目(正確には3回目)に会った時、彼女は開口一番に謝った。
俺は自分が謝るような覚えはあっても、謝られる覚えはないから戸惑った。

「実は、来月から出張でしばらく留守にするんです」

俺と出会った飲み会の日にはすでにそれは決定していたらしく、だから焦ったらしい。
焦ったからあんなに展開が早かったのだろう。
本当に展開が早すぎて俺はびっくりしたけれど、あの展開がなければ今こんな風に笑ったりできなかったはずだ。
だから、本当にこれでよかったのだと思う。


「花井さん、携帯光ってますよ?」

カフェでテーブルの上に置いた携帯のライトがピカピカと点滅していた。
俺はそれに気付いて、すぐにポケットに携帯をつっ込んだ。

「今から仕事回されたら困るんで」

いかにもその電話が会社からのように俺は嘘を吐いた。
そう、それは嘘だった。

田島に別れを告げたあの日から同じ時間に田島から電話が掛かってくる。
会社が終わった頃を見計らったように何度も何度も何度も電話が掛かってくるのだ。

その電話を取ってしまいたい気持ちになら何度だって襲われた。
でも、まだ一度も取っていない。

田島に何を言われるのかが分からず怖いと思うのと、自分が何を言うかが分からなくて怖いからだった。


まだ何も解決はしていなかった。
撮られた写真のことを花井は田島に言ってなかったし、
熱愛発覚の話をまだ田島から直接は聞いていなかった。

でも、それらは絶対にしなければいけないことではないのだ。

花井はそう結論付けていた。

撮られた写真はきっともう新聞や雑誌に載ることはないだろう。
あの写真よりも今は結婚秒読みと煽られている田島とそのモデルの写真の方が売れる。
だからあの俺と田島が写った写真が世の中に出ることはない。

だから、俺が田島と会う理由もないのだ。

田島がこのまま結婚すれば、俺が竹下さんを選べば、問題なんてなくなる。

だからこのままでいいんだ。
このままがいいはずなんだ。

なのに、なんで、お前は電話を掛けて来るんだよ、田島。
今更俺たちに話し合いなんて必要ないだろう、なのに、なんで。

携帯はその後も数分置きに鳴り続け、何度も留守電に田島のメッセージが残る。
留守電をその場で聞きたくなる衝動を何度も、何度も堪える。

目の前で美味しそうにコーヒーを飲む竹下さんの顔を後ろめたい気持ちから直視できなくなる。

本当に、ゴールはどこにあるというのだろうか。
でも、もうそのゴールがどこにあっても関係なくなる。

俺は深呼吸をして、竹下さんを真っ直ぐに見た。

「竹下さん」

花井が名前を呼ぶと、竹下さんが顔を上げた。

「俺も、人生を一緒に歩く人は必要だと思います」

カチャリとコーヒーをかき混ぜるスプーンの手を竹下さんは止めた。
そして、小さく何かを呟いたけれどそれは俺には聞こえなかった。
だから言ったのだ。

「それが一生に一度の恋ではなくても」

竹下さんが目元を細めて、泣きそうに笑う。
それを見て俺も笑った。

田島だけだと思っていた。
俺が傍にいたいと願う人間は田島だけだとずっと思っていた。
それは今でも揺るがない事実だけれども、他の選択肢もあると教えられたのだ。
他にも選べる道があるのだということを、俺は竹下さんに教えられた。




この後は友達に会うという竹下さんと別れて、俺はそのまま自宅へと足を向けた。

明日は俺が都合がつかず、明後日は彼女が朝から空港に向かう。
今度ちゃんと会えるのはいつになるか分からない。
だから今日言うべきだと思った。

答えを出さず何ヶ月も離れるんじゃ彼女だってさすがに焦れるだろうと思ったから。

言えば何かが終わるような気がしていたのに、何も終わらず心は重い。
むしろもっと水を吸った綿のようにどんどんと重たくなる。
何度も何度も水を絞っても、自分の涙でまた重たくなるのだ。



「はぁ、」

ため息を吐いてベッドに座る。
投げ出した携帯がまだピカピカと光っていた。
それを眺めながら、言わなければと思った。

田島に本当の別れを言わなければいけない。
じゃなければ、今日、俺が竹下さんに言ったことの意味がなくなる。
本当に切り捨てなければいけないのだ。
田島も、田島を好きだと思うこの気持ちも、何もかも。

タイミングよく、電話が鳴る。

携帯を開くと、登録されていない11桁の番号がディスプレイに表示される。
俺の携帯の履歴は今この番号で全部が埋まっている。
それも、今日で終わるのだ。

通話ボタンを押すと、驚いたように田島は一瞬言葉を発しなかった。
でも、すぐに「花井、」とまるで泣き出しそうな声で俺の名前を呟いた。

「花井、ちゃんと話がしたい」

田島の声がそう告げる。
何を?話って何を?お前の結婚話を聞かされるのか?今更やっぱり別れようとか言い出すのか?
今更、今更、好きだとでも言うのか?

「田島、」

俺は田島の名前を呼んだ。
久しぶりに声に出して田島の名前を呼んだな、とどうでもいいことを頭で考えていた。
竹下さんの名前なら本当に何度も呼んだのにな、と。

「田島、俺はもうお前に会うつもりはないよ」

自分の声がやけに冷たく部屋に響いた気がした。
感情を殺そうと必死に思っていたからなのか、その声には一切の感情は入ってなかった。

「何でだよ、花井」

そんな冷たい声にも縋った田島に俺は驚いた。
これ以上引き伸ばされたら、また簡単に決意は揺らいでしまう。

「また、またオレの幸せの為なのか?」

田島の声があまりにも必死だった所為だ。
あの高校時代の、別れるのが嫌だと泣いた田島が脳裏に浮かんだ。
それを振り払うように花井は頭を横に振った。

違う。それは半分は当たっているけど、半分は違うんだ。
確かに半分はお前の為だ。でも残りの半分は違うんだよ。

花井はぎりっと歯を食いしばって言った。

「俺の幸せの為だ」

はっきりとそう言ったら電話の向こうの田島が黙った。
沈黙だけが続いて、花井はため息を吐くことすら出来なかった。
今、田島は何を考えているのだろう。
それが本当に想像すら出来なくて、それに悲しくなった。

何か言えよ、田島。

そんなずるいことばかり思っていた。


「もう、電話掛けてこないで欲しい」

何も言わない田島にそれだけ告げて、一方的に電話を切った。
電話を切った後、ずっと携帯を眺めていた。
でも、携帯はもう鳴らなかった。
当たり前だ。
俺が掛けてこないで欲しいと言ったのだから。
決定的な言葉を俺が口にしたからなのだから。


もう、本当に終わりなんだ。


そう思うと体中から力が抜けた。
ベッドに倒れこむ。

頬に何かが触れる感覚がしたから手で拭うと、それは涙だった。

まだ泣けるのか、俺。
本当にそう思う。
毎晩、あんなに泣いて、それでもまだ泣けるらしい。


涙は血液だ。


誰かがそう言っていた。
西広だったかな。いや、でも変な知識が豊富な水谷だったかもしれない。
血液の血球やらそういうのを取り除いたら涙になるんだと、確か自慢げに言っていた。

あの言葉が正しいなら、あとどれくらい泣けば死ねるんだろう。
本当に、どうすればいっそうのこと楽になれるんだろうか。

田島が好きで、田島を想って、だから泣いて、そしてそれで死ねるならそれは俺の本望なんじゃないか。


なぁ、田島。
すげー、辛いよ。
やっぱり、辛いよ。


自分でもふざけたこと言ってると思いながら、それでも俺は何度も田島の名前を繰り返し呟いた。








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