真夏の果実






田島の写真が載っているそのスポーツ新聞から目が離せなかった。
通話ボタンを押そうとした指は止まっていて、押す前に電話は切れてしまった。

どういうことだ?

意味がよくわからない、わかりたくない。
田島は結局俺を選ばないってことだろうか。
あの夜は嘘だったのだろうか。
あの温もりも、あの朝のキスも、全部嘘なのか?

そこまで考えて一度頬を軽く叩く。

まだ、ちゃんと話聞いてない、先走るな。



でも、もう自分がどうやって立ってるのかが分からなかった。


「花井さん?」

後ろから名前を呼ばれてはっとして振り返った。

「中々戻ってこないので気になって、どうしたんですか?」

竹下さんは心配そうな声で尋ねてきた。
何でもないです、と言って席に戻ろうとした時、足元がふらついた。

気分が悪い。
足に力が入らない。
吐き気がする。

その場で呼吸を整えていると、彼女が「無理はしないでください」と言った。
そして花井を支えるようにして立った。

「少し休んでから帰ったほうがいいですね、心配です」

都合よく俺と彼女が居たレストランはホテル内にあるものだった。
そのホテルは俺が泊まったこともない、多分このまま生きていたら泊まる予定もないだろう、高級ホテルだった。

部屋までは竹下さんが支えてくれた。
そんなに体重は掛けてないが、それでも重かっただろう。
ホテルの部屋に着くまで何度も自分が情けなく思えた。
こんな、自分よりずっと小さな女の人に支えられてるなんて、すげー男としてカッコ悪い。
カッコ悪いと思ったところで体調はよくならず、結局支えてもらわなければ歩けなかった。


「具合悪いなら、言ってくださればよかったのに」

胃に収まってるものを全て洗面台に吐き出した俺をベッドに寝かせてから彼女は言った。
「そんなにあたしって怖くみえます?」とくすくす彼女が笑って、俺は恥ずかしい気持ちになった。

「熱はないみたいですね」

どこから調達したのか、竹下さんは体温計を持ってきて、花井の熱を測る。

「やっぱり病院に行ったほうがよかったかしら」
「横になってれば大丈夫です」
「そう、なら、よかった」

竹下さんは安心したように微笑んで、ベッドに腰掛けた。
そしてぼうっと窓の外を眺めていた。
折角の食事をこんな形で台無しにして居た堪れなかったから俺は彼女に話しかけた。

「あの、すみません、こんな」
「いいんですよ、気になさらないでください」
「折角時間割いてくださったのに、すみません」

俺がそう言うと竹下さんはふふっと笑った。

「時間を割かせたのはこちらですよ、ほんとお気になさらないで」



いつの間にか外は雨が降り出したらしくて、空は奇妙な明るさで光っているように見えた。
高いビルの街並みは寂しげに泣いているようだった。
そしてその街並みを眺めている彼女の表情から感情が読み取れなくて、俺は黙ってしまった。
でもその沈黙に耐えられなかったのは俺のほうだった。

「あの、どうして俺だったんですか?」

そう尋ねてみて、余計なこと聞いてしまったと思って後悔した。
竹下さんは少し驚いて、でもすぐ微笑んだ。

「何でかな、この人なら分かってくれると思ったからかな」

何を、と聞こうとしてやめた。
窓の外を見ていた彼女の瞳に水の膜が張っているのに気付いたからだ。
何も口に出来ずただ、彼女が何か口にするのを待っていた。


「花井さんは、一生に一度の恋ってあると思いますか?」


彼女は振り向いて花井の顔を見て、そう尋ねてきた。

「一生に一度の恋、」
「そう、一生に一度の恋です」

その言葉は田島を連想させた。
一生に一度の恋があるとするなら、その相手は他の誰でもなく田島だった。
苦い気持ちが押し寄せて、俺はぐっと手を握り締めた。


「あたしにはあったんですよ、一生に一度の恋」

視線を花井から窓の外にまた移した彼女はそうぽつりと呟いた。

「それは、今も?」

俺がそう尋ねると、彼女は首を横に振った。

「もう終わっちゃいました。もう何年も昔の話ですよ、」
「聞いてもいいですか?」

そう尋ねると、思い出話でいいなら、と彼女は言った。

「あたし、一度家を出てるんです。結婚はしてないです。でも、駆け落ち同然でした」

彼女の話によると、何年も前に海外まで好きな人を追いかけたことがあるらしい。
そして、一緒に暮らして幸せだった、と彼女は笑った。

「すごく才能のある人だったんです。でもあたしには何もなくて、彼はどんどん先へ進んでいくのに追いつけなかった」

その言葉を聞きながら、俺はブラウン管越しに見たプロ入りが決まった田島の顔を思い出していた。
ものすごいカメラのフラッシュの中物怖じひとつせず、真っ直ぐを見つめ続けた田島の瞳を思い出していた。

「すごく彼のことを愛してました。だから邪魔だけはしたくなかったんです。それに、彼には相応しい人がちゃんといた」


田島の為だと半ば自分に言い聞かせて田島と別れた日を、そして写真で田島の隣に並んでいた女の人を思い出した。
俺には絶対に与えられないものをあの人なら田島に与えることが出来る。
周りからの祝福や、家庭や、子供や、明るい未来、その全てをあの人なら田島に与えることが出来るのだ。
俺は、それを奪うことしか出来ない。


「結局、彼はその人を選んだんです。だからあたしは日本に帰ってきた。しばらくは何もできませんでした。」


そして、しんと静まり返った部屋に彼女のふっと笑う空気の音が聞こえた気がした。

「でも、人生って長いんです。独りでなんて無理だと思ったんです。だから誰か一緒に歩いてくれる人が必要だと」

彼女は静かに視線を窓の外から俺に移した。
静まり返った部屋の中に時計が時を刻む乾いた音が響く。

「それが、俺、ですか?」

俺は恐る恐る尋ねた。

「ええ、」

彼女はすごく寂し気な表情で笑った。
涙は零れなかったけど、瞳が泣いていた。
何も答えられず、掛ける言葉も見つからず、俺は黙ってしまった。

「花井さん隈がひどいですよ、ちゃんと寝ていますか?」
「あ、え、と、」

突然聞かれて俺は口ごもった。
そういえば、田島からの連絡を待ってたり、写真のことを考えたりしていてここ何日かろくな睡眠を取っていなかった。

「寝てから帰ってくださいね、フロントには言っておきますので」

竹下さんは立ち上がって、スカートの皺を直す。

「あたしはそろそろお暇しますね、しっかり休んでください」

バッグを片手に取って、黒い髪の毛を耳に掛けてそう言った。

「いろいろなんか、すみませんでした」

俺はぺこりと頭を下げると、彼女は笑って「こちらこそ」と笑った。
そして鞄からペンを取り出して、メモ帳に何かをさらさらと書いて、それを俺に渡した。

「何かあったら連絡ください」

にっこり笑って彼女は出て行った。
一人残った部屋に彼女の香水の甘い匂いだけ残っていて、手渡された携帯番号を眺める。





彼女が俺を選んだのは、多分俺なら彼女の気持ちが分かるからだ。
それをあのたった一回の飲み会で気付いたのかもしれない。

ため息を吐いて窓の外を見た。

この街のどこかに田島はいるのに、もう会える気はしなかった。
さっきまでずっと鳴っていた携帯電話ももう静まり返っていた。

一生に一度の恋があるとするなら、それは田島だ。
それは断言できる。

けれど、一生寄り添う人は別の人なのかもしれない。

田島には才能があって、そして相応しい人がいるんだ。
竹下さんが言っていたように、俺だって邪魔はしたくない。
田島の荷物にだけはなりたくなくて、だからあの日に別れを選んだんだ。

もう、触れ合うことはしないと決めていたはずなのに。
目の前に田島がいると我慢が出来ない。
好きだから触れたくなる。
傍に居てもいい理由を探したくなる。
離れずに済む言い訳を探したくなる。

そんなもの、あるはずがないのに。


目の前の風景が歪む。
綺麗に並んでいた数字の上に涙がぽたぽた落ちて数字が滲んだ。

自分のしていることが正しいのかは分からなかった。
本当に田島の為になっているのかは分からなかった。

でも会ってしまえばまた決意は揺らぐ。
そして、そんな揺らいだ決心で田島の傍にいることは多分辛いだけだ。
そして、そんな俺が田島の傍に居ていい訳がない。

携帯電話を開いて履歴を見る。
何度も掛かってきている電話番号を一瞬電話帳に登録してしまいたくなった。

けど、唇を噛み締めてそれはやめて、通話ボタンを押した。
呼び出し音が一度鳴った後、すぐ田島の声が聞こえた。


「花井!!」


田島の声が俺の名前を呼んでくれたのが嬉しかった。
待っていたかのようにすぐに電話に出てくれたのも嬉しかった。

でも、もう会えない。
もう、会わない。

一度手を離した俺のところにもう一度チャンスがきたのに俺はまた手を離すんだ。
こんなにも胸が潰れるほど好きなのに、そんな田島の手をまた自分から離すんだ。

ずっと田島が好きだった。
ずっと俺を見てて欲しかった。
ずっと一緒に歩いていきたかった。

それが叶わないこと、叶ってはいけないことをずっと前から俺は知っていたんだ。


田島に別れを告げて電話を切ってから泣いた。
窓の外の街並みに雨が更に激しく降り続けていた。






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